む……ん…

 不穏な気を察し、反射的に右手を空に放つ。
 例えれば、寝入りばなに近寄ってきたうっとおしい蚊を振り払う感じで。なるべく獲物が引っ掛かりやすいように、ぐいっと五指を延ばした手の平を素早く振り下ろす。
 獲物を捉えた感触は、バチィン!という確かな衝撃となって、掌に伝わった。

「痛ぁ!」

 一拍遅れて、部屋中に響き渡る間抜け声。で、うっとおしいそれが人であると分かったんだけど。
 っていうか……

 あんた、そこで何やってるのよ、順。

「ま、まぁ、あたしにも落ち度はあったんだろうけど。今の一発は効いたわ…綾那」

 我ながら、見事に頬をクリティカルヒットしたからね。
 あー、すっかり赤く腫れてるけど。

 それより、一体何のつもり…で。

 と、尋ねようとしたけどやめた。
 それは、右手に握り締められた木製の小さな棒をみれば一目瞭然だ。

 あんた、それで私の鼓膜でも破るつもりだったんじゃないだろうな。

「し、失礼ねっ。あたしはただ、愛しい綾那に耳かきをしてあげようと思っただ・け・よ」

 真っ赤に張れた頬を押さえながら、涙目でしなをつくったところで様にならないんだけど。
 それに、耳かきだって?

 …いらん。

「という返事が返ってくるのは分かってたから、こっそりやってあげようと思ったのに」

 指先でクルクルと器用に耳かきを玩びながら、至極残念そうな顔でそう言われてもね。

 余計なお世話だっての。
 全く…迂闊に昼寝も出来ないわ、これじゃ。

「でも、綾那も自分の耳の穴の中、少しは気にした方がいいんじゃない?」

 何だって。
 私の耳の穴に文句でもあるってか。

「んー、分かってるんじゃないの、聞こえが悪いって事に」

 !

「剣待生ともあろう者が、そんなことでいいのかなぁ」

 いや、耳の聞こえとそれに何の関係が…

「ま、あんたがはやてちゃんの足を率先して引っ張りたいって言うなら、あたしは別に構わないけどね」

 はっ!?私が…あのバカの足を引っ張るって?

「へっ、いやまぁ…」

 あのバカの名前を聞いた途端、思わず身体が反応し身を乗り出してしまった。
 私の怒気に当てられた順は、"今のはちょっとヤバかったかな~"ってな焦りの表情を浮かべ、じりじりと部屋の片隅へと後づさりしていく。

 順の指摘…内容はまるで的外れなのだけれど、その言葉は別の意味で私の心をエグった。
 人間誰しも、本心では理解しつつも意識的に目を背けている事を指摘されると、頭に血がのぼるものだ。

 結局の所、私はその事を認めたくなかっただけなのかもしれない。

「ちょ、ちょっと待ってよね、ほんと」

 必要以上におどけて、頭を隠すようなゼスチャーをしつつ壁伝いに部屋を転がる順。
 わかってる…あんたのそれが"演技"だってことくらい。
 それなら、こっちにも考えがあるわ。

 じゃ、掻いて。

「は!?」

 今度は、順が目を丸くして驚いている番だ。
 普段から、その言動に振り回されっぱなし、たまにはこっちがびっくりさせてやるのも気分がいい。

 そんなに掻きたいなら、掻かせてやるって言ってるの。

「そ、それはどういう風の吹き回しで」

 サササッ、と四つん這いのまま近寄ってくるその姿は、滑稽以外の何物でも無いのだが。
 ただ、そういう身のこなしが何故か妙に似合うのがこの女の謎なところ。

 理由なら、あんたが今言ったでしょ。

「あぁ…それを認めるん…いや…まぁその汚いって言ってる訳じゃなくて…でも耳毛もちょっと伸びてるかな…別にそんなハミ出すほどじゃないけどね…」

 私の機嫌を損ねないよう、それでも言葉を取り繕っているつもりか?
 このままほっておくと、どんどんと墓穴を掘り続けそうな勢いなんだけど。
 ていうか、いつの間にそんなに詳しく私の耳の穴の状態を観察してるんだ、この女は。

 あんたが掻きたいっていうから掻かせてあげるって言ってるだけ。いやなら止めればいい。
 深く考える必要は無いわ。

 そう、ただそれだけのこと。順にとっては。
 私にとっては?
 …タダで耳掃除してくれるって言ってるんだから、別に損な話じゃない。
 それだけのことだ。

「なら、掻かせてもらうわよ」

 唸るように、彼女の喉の奥底から絞り出されたその台詞は、どうにも掴みどころの無い無気力無関心なルームメイトの普段の様子とは明らかに違う声色で。
 その瞳の奥底には、静かに揺らめき立つ炎が見えた。

 場の勢いで掻いてくれなんて言っちゃったけど、こりゃ失敗したかも……

「じゃ、そこ狭いからこっち来てっ」

 ふんふんと鼻息も荒く、パシンパシンと太ももを叩いているけど、もしかしてひざ枕するってか。
 女同士でそれはどうなのよ。

 あんた、最初はここで掻こうとしてたじゃないか。

 一応、反論はしてみたけれど。

「両者合意の元でヤるんだから、ちゃんと掻かせてよね」

 確かに、二段ベットのそれも下じゃ、高さは制限されるし陰になってるしでやり難いか。

 ま、誰にも見られなきゃ関係ない…よな。
 目の前で、ニタニタしながら瞳を輝かせているこの女が、余計なことを言い触らさないとも限らんけど。

 仕方ないので、もそもそとベットから這いだし、頭を順の膝の上目がけてごろりと横に。
 んー…

「何?」

 いや、あんたって見かけによらず、意外と筋肉質だなーって。

「…覚えてなさいよ、綾那」

 別に深い意味はなかったんだけど、そんな恨み節を返すあたり、どうも私の言葉が気に食わなかったらしい。
 実際問題、この女が真面目にトレーニングしたり剣を交えているところを見たことが無いんだから、身体が出来ていることが意外なのは仕方が無いじゃないか。

 それにしては、随分と鍛え上げられたような筋肉だし。相変わらず謎の多い奴。
 結局、ルームメイトとは言っても、クラスや剣待生としての付き合い以上のことは何も知らないのよね…

 なんて、漠然と順の事を考えていた所が、感極まったという表現がピッタリの突然の奇声を浴びせられ、現実に引き戻された。

「うひゃ、想像以上に凄いわ!入り口まで耳アカ詰まってるよ綾那ッ!!」

 だから、それをデカい声で言うなってのっ!!

 そう、私が恐れていたこと。
 それは…

 最近どうも耳の聞こえが悪いなーと思いつつも、面倒なので耳掃除もせず放置していたことなのだ。
 やっぱ、相当汚れてんだろうなぁ…

「綾那ぁ、あんた最高よっ!」

 もちろん、この場合の最高とは、最低という意味だろう。

「いやーぁ、これは掃除し甲斐があるねぇ。でも、このままじゃ取り付く島もないか」

 ちょっと失礼して……というが早いか、ポタリ、と生暖かい滴が耳に落ち、シュワワッと耳の中に広がっていく。

 ひゃ、いやっ、あんた今ナニ垂らしたの!?

「んー、順ちゃん特製秘密の液体」

 ……ツバだろ。

「では、いきます」

 じっとしててよー、と、耳の後ろに置かれた順の左手はそっと指先で耳たぶをつまみ、耳の穴が見やすい向きへと軽く引っ張った。
 秘密の液体(ということにしておく、気分が悪くなるから)によって柔らかく馴染まされた耳アカに、サクッとサジの先が刺さった。
 そのままスッ、スッ、と2,3度小刻みに震わせてから、一気に掻き取る。
 軽い振動として響く音と耳に伝わる感触は、溶けかけのシャーベットを垂らさないように、そーっとカップから口へと運んでいる様子をイメージさせる。

 サクッ、スッスッ…カリッカリリ…

 奥に埋もれていた固まった耳アカに、サジの先が触れ。
 僅かな振動が耳の穴の中を揺らし、ゾゾッと耳の穴に痒みが広がる。

 カリカリ…カリ…カリ…ッ…

 痒みは、耳アカをすくい取るサジの動きに合わせて、スーッと面白いようにひいていった。
 カリカリとサジが掻く静かな振動に時折混じるのは、耳アカにからめ取られた産毛が抜けるツンッとする刺激。

 サクッ…サクッ…カリカリ…サクッ…

「あはっ凄いよ!掻いても掻いても湧き出てくるみたい!」

 …不潔な耳で悪かったな。
 にしても、何でそんなに嬉しそうなんだ、あんたは。

「だって、ここまで耳アカ溜めてる人なんて、女の子じゃ滅多にいないじゃん。こりゃ腕の奮い甲斐があるってものよ」

 そんなもんですか。
 てか、耳かきの腕を奮ってどうすんの、あんたの場合少しは剣を奮ったら。

 なんて悪態を吐きつつも、溜まっていた耳アカがあらかた取り除かれ、耳かきの先がカリカリと穴の壁を掻き始める頃になると、段々と耳かきの良さというものが分かってきた。

 こびりついていた耳アカがパリパリと剥がされるたび、ピリリと快感が背筋を走る。それは筋肉を刺激する波となって、首筋から背中へ。

 あ!そこいいかも。

「ん、ここ?」

 つんつん、と耳かきの先で突かれただけで、ビリビリと痺れるように気持ち良い。
 体中の緊張感が抜けて、筋肉が緩んでいく感覚。

 店員さん、そこが痒いところです。

「美容院のシャンプーじゃないんだけどなぁ」

 苦笑しながらも、順は律義に一層丁寧に痒みのスウィートスポットを掻いてくれる。

 スッ…スッ…カリッ…カリッ…ペリッ…

 積もった耳アカが剥がされる度、更なる快感の波が連なり押し寄せるように背中から腰へ。
 こないだの試合でちょっとばかし無理をして凝り固まっていた筋肉も、快感の波に刺激されて芯から疼きだした。
 血行が良くなったのか、筋肉がじんわりと熱を帯びてポカポカと暖まり始めると、なんとも言えない心地よさに全身が包まれていく。
 あー、これはタマランなー。

 んー、結構良い物じゃないの、耳かき。

「でっしょぉ~、綾那なら分かってくれると思ってたわ」

 それは何故に。

「だって綾那って性(しょう)は受けよ、絶対。はやてちゃんと絡んでる時は立場上攻めだけどさ、あれってなんかしっくりこないと睨んでいた訳よ。分かるかなぁ」

 あのバカは先天的ボケ体質なんで、そりゃツッこまずにいられません。
 てか、あんたの頭の中はそんな妄想ばっかりかい。

「んー、鼓膜の辺りにも結構こびり付いてるなー」

 あ、奥に入ってきた……ちょっと、なんか凄い奥まで入ってない?これって…

「いいから、動かないで」

 順の左手に一層の力がこもり、ぐっと私の頭部を押さえ込む。
 耳かきが、鼓膜付近を繊細に掻く。
 クックッ…コリコリッ…スッ…スッ…

 サジが耳アカの端を捕らえるものの、頑固にこびりついているのか掻き出せないようだ。
 空振りし、揺れ動かされた耳アカが鼓膜に触れるたび、ガサガサと凄い音と軽い刺激、そしてそれらを包み込むような快感が全身を襲う。

 うわっ、これって目茶苦茶イタ気持ちイイって奴じゃないの。

「んー、もうちょっとなんだけど…お、取れるか」

 カリッ…カリカリ…メキ…

 と、その時。ドアの向こうから、今一番聞きたくなかったノーテンキな呼び声が。

「あーやーなー、入るよー」

 ドアをノックすると同時に開け放つ、セッカチな性格そのままの動作で姿を見せたのは、私の刀友であるクロこと黒鉄はやて。
 
 ちょっと!今取り込み中だから……

「おー、こんな時間に訪ねてくるなんて、どうした?はやてちゃん」

 手を休める事なく、声をかける順。もう少しで捕らえられそうな獲物を前に、耳かきを止めるつもりはないらしい。

「あ、あーっ!?」

 素っ頓狂な声を上げ、クロはドタドタと部屋に入ってくるなり、しゃがみこんで私の顔を覗き込んだ。

「あ、あ、あ……あ……」

 ブルブルと震え、目からボタボタと涙を流しながら、壊れたスピーカーのように唸り続けているが…やっぱこいつバカだ。

 ちょっと、どうしたのよクロ?

「あ、あやなの穴が……じゅんじゅんの堅い棒で貫かれた上に、激しく前後にスライドされたりグルグル引っ掻き回されたりされちゃってるよ!」

 だから!どうしてお前はいつもいつも意図的に誤解を招くような言い回しをする!

「まぁまぁ、焼くな焼くな。今度ははやてちゃんにもやって上げるから」
「あ、あたしの穴も!あやなとあたしは竿姉妹!?」

 そんな意味不明の捨て台詞を吐いたかと思えば、バカは身を翻しズダダダッと怒涛の勢いで部屋の外へ。

「あやなのバカぁ~!」

 ちょ、こら、待てっ!バカはお前だ!!

 追いかけようと身を乗り出そうにも、順に頭を押さえられていて動きようがない。
 クロの奴も、ちょこまかとすばしっこいのが取り柄なだけに、今更追いかけた所で無駄足だろう。

 全くあのバカは、一体何しに来たのよ!

「んー、でもまぁはやてちゃんの予測不可能な行動はいつものことじゃん。それより続き、やるのやらないの?奥の大物を取ったら、次は左耳ね」

 順はあくまでも冷静だ。なぜかクロの扱いには妙に手慣れている。

 ……お願いします。

 そして結局、私はすっかり順の軍門に下ってしまった訳だ。
 そのまま時の経つのを忘れるほど、目眩く官能に身を任せ。何度も意識を失いつつ、順の操る耳かきに酔いしれることとなった。

 耳かきの後で驚いたのは、掛け値なしで耳の聞こえが良くなったということ。

 世界は…こんなにも雑音で溢れていたんだわ…

「言ってることが意味不明だよー、綾那」

 そんなに笑わなくてもいいでしょ、本当にそれくらい感動したんだから。

「それなら、背後から打ち込まれた剣の気配も、音で感じ取れるようになるかもね」

 え!それって…

「楽しみにしてるわ、あなた達とやるのを」

 ん…そうね。私も楽しみにしてる。

 この眼鏡は取らないと言ったから、おまけに耳の聞こえまでもが悪いんじゃ勝っても嬉しくないって事か。

 そういうことなら、思い切ってやらせてもらうわ。
 私にそんな情けをかけたことを、思いっきり後悔するくらいにね。

 …ありがとう。って、一応礼はしておくわ、順。

 fin.