…いててて。
放課後。
ハルヒの強権発動により、普段はそこそこメンバの集まりが良いSOS団も、今日のところはまだ部室には俺だけしかいない。
長門が来てないってのも珍しいが、あいつも掃除当番やらクラスの用事はちゃんとこなしてるって事か。
掃除と長門…
クラスメートに混じって、黙々と床や机を雑巾がけなどしている長門の姿を想像してみたが、案外違和感無いもんだ、などと感心しつつ。
俺は、ここのところ悩まされている、首から肩にかけての違和感と格闘していた。
首筋の違和感を正すべく、意識して首を伸ばしながら、頭を前後左右にぐるぐると回してみる。
ぐりぐり、ぐりぐり…首の筋と骨を伸ばしたり縮めたり。
何回転かして、グッと頭を後ろに回したその時、ポキポキッと首の骨から音が鳴った。
お、今のでちょっとスッキリしたんじゃないか。
しかし、一通り音が鳴り終えてしまうと、それ以上の刺激は起こらない訳で。
ダメだ、いまいち物足りん…
「どこか調子でも悪い？」
ん…て、お前か！雑巾がけはもう終わったのか？
背後からの声に思わず振り向くと、いつものように左手に文庫本を抱えた、長門の姿があった。
「雑巾？」
あ、いや…今のは妄言だ、忘れてくれ。
それより、いつからそこに。
「ぐるぐると、首を回していた所から」
随分と、間の悪いとこを見られていた様だな。
ま、部室にいつ誰が入ってこようがおかしくない訳だし、油断してたぜ。
とりあえず、座ったらどうだ。
「そうする」
などと返事をしておきながら、いつまでも俺の横につっ立っているのは何故だ、長門。
「答えが、まだ」
答え？
って、あぁ…質問の返事を待ってたってのか。
ちょっと首…いや、肩なのかもしれんが、張っているような感じがしてな。
右腕を身体の前側から左肩に回し、掌で掴んでぐいぐいと揉んでみる。
指先には、コリコリに固まった筋の感触。やっぱりこりゃ、相当こってるって感じだ。
ただ、こういうのは、自分で揉みほぐしたところで全然気持ち良くないし、さしたる効果もない。
「涼宮ハルヒの行動に付き合うことで、身体の疲れが蓄積しているのかもしれない」
…やっぱりそうなるのか。
この間も、あいつの気まぐれで野球なんぞに借り出されたもんだから、ちょっと無理しちまって身体中が悲鳴を上げてるぜ。
「今、あなたがここから居なくなるのは困る」
おいおい、縁起でも無い事言わないでくれ、肩こりくらいで入院したりしないって。
それに、ハルヒを退屈させないよう、御守が必要だっていうんだろ、分かってるさ。
そう、分かっちゃいる。
が、だからと言ってこのまま無理を続ければ、本気でこっちの身体がおかしくなりそうでもある。
「…マッサージは得意」
は？
今度は何を言い出すのかと思ったら、耳かきの次はマッサージか。
かねてから不思議なんだが、お前の雇い主は何を期待して、お前にそんな得意技を授けているんだろうな。
「新たな生命進化の可能性を模索するため」
すまんが、その崇高な目的と、耳かきやらマッサージとの因果関係がさっぱり分からんのだが。
「…あなたのため」
俺のため、か…
結局それは俺じゃなく、ハルヒのためなんだろ。お前の大事な観察対象である。
いい加減、ハルヒの付き人としてちやほやされるのも、うんざりするぜ。
…って、まったく。
何をガキみたいに苛ついているんだ、俺は。
長門はただ、親切で言ってくれてるんじゃないか。
それをこんな風に、嫌みな態度で否定しちまうとは。
こいつは何時だって、真剣に俺のために動いてくれていたし、俺自身ハルヒとつるんでいる事が楽しいと感じてきている。
文句をいう筋合いなんて、な。
ただ…
理屈じゃ分かっていても、素直に割り切れない気持ちってのはある訳で。
そんな俺を察して、という事でもないんだろうが。
しばし沈黙が続いた後、長門が呟いた一言からは、どれほどの雄弁な語りよりも深い想いが伝わってきた。
「信じて」
長門よ、そうやってじっと人の瞳を見つめるのは反則だ。
そんな事されて、お前の事を信じられない筈がないだろ。
「よかった」
そう言いながらも、相変わらずニコリともしない奴なんだが。
その能面のような表情の底に、微かな笑みが透けて見えた俺は…きっと幻でも見ていたんだろう。
ただ、幻でも俺の心のわだかまりを消し去る程度には、十分な効果があったようだ。
そうまで言うなら、ま、頼む。
なんて、素直に頼めるくらいに。
「任せて」
…
言葉とは裏腹に、長門は動こうとしない。
どうしたんだ。
「脱いで」
は？脱ぐって…服着たままじゃだめか。
こっちは別に、少しくらいシワになったっていいぜ。
「ダメ」
そ、そんなに即答されてもだな…
ま、過去の経験からしても、長門の言う事を素直に聞いておけば、損は無いのは確かなんだが。
仕方なく、ネクタイを外してYシャツを脱ぎ、適当に折りたたんでテーブルの上に載せる。
「…」
今度はどうした？
お前に見られている手前、普段なら脱いだままそこら辺に丸めて転がしておくところを、随分丁寧に畳んだつもりなんだぞ。
「脱いで、と言った筈」
あぁ、だからシャツ脱いだぜ。
「全部、脱いで」
全部って…これもか。
まさかと思いながら、アンダーシャツの胸元を軽く摘まみ上げてみたのだが。
こくり、と。さも当たり前の事であるように、長門はうなずきやがった。
部室で男女二人きり…そして男は上半身裸ってのは、さすがにちょっとヤバいんじゃないか。
なぁ…長…
「早く」
取りつく島も無い、ってのはまさにこの事かもしれん。
これ以上は、何を言っても無駄のようだ…
観念して、汗で湿ったアンダーシャツを潔く脱ぎ、念のため臭ったりしないように固く丸めて、畳んだYシャツの下に潜り込ませる。
もしハルヒが来た時は、ちゃんと事の経緯を説明してくれよ。
「努力はする」
心もとない返事に不安を覚えつつ、上半身裸という何とも落ち着かない格好でパイプ椅子に座り直す。
背もたれに張られたビニールクッションの表面が、汗でペタリと背中に貼り付く感触が気持ち悪い。
で、今度もまた椅子に座ったままでいいのか。
長門は無言のまま肯き、手にしていた文庫本をそっとテーブルに乗せてから、俺の背後に立った。
「力を抜いて…」
いつもの抑揚の無い声を耳元で静かに囁かれると、まるで催眠術師にでもかけられているような気分がする。
「楽に…」
冷たくなめらかな細い指先が、左右から俺の首筋を包み込み、二本の親指は背骨を挟みこむように頭蓋骨と首の付け根付近を押さえつけた。
そのまま、指の先にぐっ，ぐっと圧力をかけ、首の筋肉に沿って上から下へと移動していく。
ぐっ…ぐいっ…ぐいっ…
上から下へ、そしてもう一度上から。
首筋を往復した指先がピタリと静止し、ぐぐーっとキツめの圧力が加わる。
ーーッ、こりゃキクぜ…
キューッとツボを圧迫され、痛さとくすぐったさが一体となった刺激が、なんとも気持ち良い。
単なる痛いだけの刺激と違うのは、身体の奥に潜むツボに深く効いているせいなのか。
「強すぎる？」
い、いや、ちょうどいいぞ。
長門の奴、今日のために俺の身体を研究し尽くして来たんじゃないのか。
などと勘ぐってしまいたくなる程に、具合が良い。
「そう…やっぱり、凄くこってる」
ギューッ…グリグリ…
ギューッ…
じわーっと、筋肉の内側から湧き出てくる痛くすぐったい刺激が、首から背中へと駆け抜け背筋を貫いた。
アハッ
…て、おい！何キモい声あげてんだ、俺！
ここに長門以外の奴が誰もいなくて助かったぜ…こいつなら、面白おかしく他人に言いふらしたりはしないだろうからな。
「特にここ…」
首の付け根でひときわ出っ張っている骨の根元辺りを、親指の先でまさぐりながら、長門が呟く。
ムニムニと指先に押される事で、筋肉の中でコリコリと固いスジのようなものがこすれる感触が伝わってくる。
「コリ固まっている」
なんなんだ、そこは。
「第六頸椎周辺、首周辺でも一番疲れが溜まりやすい場所」
意味は分からなくても、その喋りに妙な説得力を感じてしまうのは、長門ならではだと言えよう。
「こことか…」
おもむろに、グッ、と差し込まれる両指の先。
……！
その圧迫を感じた瞬間、鈍い痛みがズキッと首筋に突き刺さった。
あ…っい、いてててて！
…いたい、いたいいたい、や、やめ…
強烈な痛みに襲われ、逃れようと身をよじるものの。
両肩を掴む長門の力は法外な強さで、身動きすら出来ない。
いた、いたいって…いて、いてててて…っ！
辛抱たまらなくなり、両の目から涙がこぼれ落ちそうになったその時。
ふっ、と。圧迫が止んだ。
長門の指が離れるまで、時間にすればほんの数秒に過ぎなかったとは言え、今の痛みは洒落にならんぞ。
「…もう一度」
は！？
いや、待ってくれ！と。涙目のまま訴えかける隙も与えられず。
痛みに身構えた瞬間。
指先からチクリと感じた鈍い痛みは、すぐにチリチリと痺れる様なくすぐったさへと変わり、細波のように背筋から腰へと広がっていった。
それは、背中全体を無数の手先によってキューッと揉みあげるようにして、拡散していく。
あ、は…
うひゃ、そこ、キクな…
「圧迫され滞留していた血流が正常化したせいで、全身の血行が良くなっている」
更にぐぐぐぅーっと指先の圧力を強めていった直後、ふっと長門が力を抜いたその時。
な…今一瞬身体が浮いたような感じがしたが、気のせいか？
こっちの戸惑いにもお構いなく、今度は右手の親指と人差し指で首筋を挟みこみ、頭蓋骨の付け根から背骨に沿って揉みほぐしていく。
ぐっ…ぐいっ…ぐり…
手の中に挟みこまれた首筋の肉が、グイッグイッと柔らかく揉みあげられていくと。
最初は、ぐぐぐ…と軋むような音を立てていた筋と筋が、揉まれる度徐々に柔らかくなっていくのが分かる。
多少の痛みはあるのだが、そんなものより。
キューっと締め付けられるような、くすぐったい刺激に首筋から背骨一帯を支配される快感に、思わず口元が緩んでしまう。
こ、こいつは、キクなぁ…
ぐいっ、ぐいっ…
首筋から、肩へ。
黙々と手を動かす長門の施術が一通り終わると、首の違和感はすっかり消え去っていた。
ぐるぐると首を回してみても、ごりごりとした引っ掛かりは消え去り、スムーズそのものに動く。
いやー、すっきりしたぞ長門。大したもんだぜ。
そんな俺の賛辞に対して、なぜか長門の表情は暗い。
「今のは、対処療法でしかない」
へ、そうなのか？
随分楽になったんだがな。
「頸椎にずれが認められる。それが原因で周辺の筋肉が不自然に緊張し、コリを生じさせている」
頸椎？何やら凄く深刻そうなニュアンスなんだが…ハルヒの奴に張り倒された時に患ったなんてオチじゃないだろうな。
それは、整体とかに行った方がいいってことか。
「今すぐ問題になる事は無い。ただ…」
おっと、それ以上は勘弁してくれ。
お前の未来予知は洒落にならん。
整体か…それも悪くは無いんだが。
なぁ、お前じゃ出来ないのか？
「出来ないことは無い…」
なら頼むぜ、ダメか？
そう、俺は長門の技を体感し、確信していた。
こいつは、プロだ。
普通に考えれば、整体なんて素人には怖くて頼める訳が無いんだが、相手が長門なら話は別だろう。
「…分かった」
よし、そうこなくちゃな。
更なる快感を予測し、思わず緩んでしまう頬を引き締めつつ。
身体を背もたれにあずけ、上半身の力を抜いて顔を上げて天井を見て、という指示に従って頭を後ろに倒す。
長門の整体か…どんな感じなんだろうな。
ちょっとドキドキするぜ。
言われるがまま、天井を見上げる格好で待っていると、視界を遮るようにして上から長門が顔を覗かせた。
「始める」
そして…
むにゅ。
ほのかに温かい二つのふくらみが、頭頂に押し付けられた！
！
こ、この感触は…アレか…アレだよな…
そのまま、胸の中にスイカでもかかえるような気楽さで、長門の左腕が俺の頭を抱く。
おおぅ！ちょ、ちょっと待て…
「喋らないで」
全く何を気にする様子も無く、長門は俺の顎を引っ掛けるように回した左腕に力を込め、自らの両胸に押し付ける事で俺の頭を固定した。
制服の生地を通じて、頭頂部に伝わる弾力と温もり…
こ、これは治療だ！治療なんだ、だから仕方がないじゃないか…
もはや何に対する弁解なのかもはっきりしないまま、罪悪感を拭い去るため、頭の中では”治療”の二文字を念仏のように唱え続けてしまう。
そんな錯乱状態の俺に構う事無く、長門は無言のまま右手の指先で俺の首筋を丹念に探り続けていた。
そして、一言。
「力が抜け切っていない」
そ、そうか？
この状況下で、緊張するなと言うのも無理な話なんだが…
意識的に全身の力を抜き、観念して頭の重みを完全に長門の胸へと預けた。
その時。
バキィィィ
んがーーーっ！
ぐわっ、と。
もの凄い力で頭を引っ張られながら、首を軸に頭をぎゅっと左向きに倒された。
骨と骨がバキバキッとこすれ、生じた衝撃波が更に骨を伝って頭蓋骨を揺らす。
「動かないで」
いや、何だ…顔が左を向いたまま力が…
動くも動かないも、全く首が動かせん…の…だが…
「大丈夫、もっと肩の力を抜いて」
力を抜く…と簡単に言われてもだな…
ついつい、自由を奪われた俺の頭頂部を支えているふくらみへと意識は向かってしまう訳だ。そこを必至であらがいつつ、平常心を保とうと努力するんだが。
胸の弾力に弾かれた頭の重み、ぷかりとプールに浮かんでいるようなこの浮遊感が、否応なしにその存在を主張してくる訳で。
あぁ、もう、認めるしかないだろ、この心地好さを。ずっとこのままここにこうして浮かんていたい、ってな－－－
－－－っ！
すーっと、全身の力が抜け。より一層の心地よい弾力を頭頂部に感じた、その時。
ゴリゴリゴリッ、と。
右回りに頭を捻られ、重重しい石臼をこすり合わせるようなザラついた振動が、背骨を伝って全身を震わせた。
んががが…っ、て…もしかしてこれで終わりか？
「終わり」
俺の頭を締め付けていた左腕を解いて、長門はすっと後ろへ一歩下がる。
胸の弾力に頼りきって完全に弛緩していた俺は、支えを失った頭の重みによって背中からひっくり返りそうになったところで、慌てて上半身を起こした。
パイプ椅子ごと、そのまま床にバッタリ、なんてのは洒落にもならんからな。
上半身を起こしてみても、今の荒治療によって、ここが明らかに良くなった、という具体的な実感はない。
だが、確かに頭が軽くなったようには感じる。
ただ間違いないのは、これで首の周りについては当分安泰って事だろう。
「お疲れさま」
いや…その言葉は、本来なら長門にこそ相応しいんだけどな。
さて、これでまた当分、ハルヒの相手として便利に使われるって訳か。
やれやれ…なんて、正直ウンザリする気持ちはある。
ただし、だ。
一仕事を終え、いつものように本棚の前に置かれたパイプ椅子へ陣取り、黙々と膝の上に広げた文庫本に目を走らせる、長門。
こいつがいてくれるなら…ま、それもまた一興かもしれん。
そういやハルヒの奴、今日は本当に遅いな…またロクでもない話に首を突っ込んでなきゃ良いんだが。
再びシャツに袖を通し、手探りでネクタイの位置を直しながらそんなことを考えていると。
ドカドカドカ…ッと、地鳴りのような足跡が部室のドアを震わせ、徐々に廊下を近付いて来るのが分かった。
お、随分タイミングが良いじゃないか。丁度服を着終わったところ…。
タイミングが、良い…？
…
これって…
何事も無かったかのように、無言で小説のページをめくり続けている長門。
今までハルヒを足止めしていたのは、お前の仕業なのか?
マッサージの時間を稼ぐための。
…いや、そんな事をわざわざ確認してもしょうがないだろ。
こいつだって、別にそんな事を感謝してもらいたいとは思っちゃいないさ。
そういう奴なんだ…いつも人知れず、この世界の正常化のために粉骨砕身している、そういう…
…ありがとうな、長門。
別に聞こえ無くていい、ただ、その言葉を口にせずにはいられなかった。
fin.