長門の様子がおかしい．．．
いつもなら、リズミカルにページを捲り上げている筈の右手が、本の片隅に添えられたまま動く気配が無い。
激しい動きで活字を追うべき瞳も、一点を見つめたままぴたりと静止している。
要するに、ふと気がつけばさっきから同じページをずっと見つめているのだ。
まさかとは思うが…故障…なのか？
外見は、どこからどうみても生粋の女子高生、いやむしろそれ以上であることは、今更言うまでも無い事であろう。
しかしこいつが人間では無い、というのもまた歴然とした事実な訳であり。
たまには動きがおかしくなる、なんて事もあり得るんだろうか。
なぁ、長門。
とりあえず、声を掛けてみる。
「………………………………なに？」
…おい、ちょっと待て！
幾らなんでも、反応が遅すぎるぞ。
あからさまに、こっちの不安を掻き立てられるじゃないか。
今日は様子が変だぞ？どこか調子でも悪いんじゃないのか。
「………………………………わかる？」
あぁ、残念ながら多分どれほど鈍感な奴だろうとな。
そう、別に俺が筋金入りの長門ウォッチャーであり、何時もこいつの事を気に掛けているから些細な変化を即座に見抜いた。なんて事では断じて無い。
「………………………………異物が」
異物？
「………………………………付着したことで、思考回路に混乱を生じている」
どうでもいいが、口を開くまでのそのタイムラグは何とかならんのか。
そのまま止まっちまうんじゃないかと思うと、こっちは気が気じゃないぜ。
「………………………………思考処理時間の大半を、異物の状態監視に費やしている」
その状態監視とやらで余裕が無いのか、心無しか返事の口調も事務的だ。
そんな、出会った頃の長門を彷彿させるような無機質な声色を耳にしていると、次第にやり場の無い不安が込み上げてきた。
いや…これは、怒り…か。
こいつだって、別に好きでこんなぶっきらぼうな態度に戻っちまっている訳じゃない、そんな事は分かってる。
ただ…な。
俺の一方的な思い込みって事も否定はできんが、徐々に軟化するお前の態度に手応えを感じていたんだぜ。
それを、異物如きが何だってんだよ。
な、異物って何だ、俺でよければ幾らでも手を貸すぞ。
「………………………………あなたには、無理」
…おいおい、随分ハッキリと言ってくれるじゃないか。
「………………………………固有の個体としての能力に問題がある訳ではない
…………………ただ、固有の種族としての能力に限界がある」
それはつまり、人間には出来ない事だってのか。
「………………………………そう」
後学のために教えてくれ、その人間には出来ない事ってのは、どんな作業なんだ。
些細な事でもいい、何かヒントになりそうな情報が得られれば、解決の糸口を探れるかもしれん。何なら小泉の力を借り…るのは気に入らんが、今そんな事は言っていられんだろう。
そんな微かな希望にすがろうとする俺の焦りと裏腹に、長門が口にしたのは意外すぎる一言だった。
「………………………………耳かき」
は！？
いや、耳かきなんて別に誰でもできるだろ…
「………………………………危険」
待てよ、そういえばこの間、自分で耳かきはするな、と頑なに主張していたな。
長門の理解では耳かきと言うのは極めて危険な行為で、人間が行うなんてのはもっての外、と結論付けている訳だ。
確かにそれなりの危険を伴う行為である事は否定しないが、それにしても極端過ぎるんじゃないだろうか。
そうは言っても、人間の他に耳かきを上手くこなせる存在のアテが、この世界にあるってのか？
「………………………………無い」
だろ。なら、俺に任せてみないか、どうだ。
耳鼻科に連れていくのは、長門の正体を考えると得策ではないだろう。その辺の町医者にロボットと見破られるようなチャチな造りでは無いにしても、余計な詮索はされたくない。
「………………………………待って」
突然、バサッと風を切る音を立て、何かが床に落ちた。
何が起きたのか、確認する間も無く。
次の瞬間、上半身がグラリと傾いたかと思うと、まるでプツリと糸の切れた操り人形のように、長門の身体がパイプ椅子の上から崩れ落ちていった。
な、どうした！？
反射的に駆け出し、間一髪顔面を床に打ちつける寸前で抱き止める事ができたのは、奇跡としか言い様が無かった。
長門は全身の力が抜けてしまったかのように、俺の膝の上で頭と四肢を重力に任せてだらりと垂らしたまま、微動だにしない。
な…長門！
ずしりとした重みを感じる頭を支え上げ、覗き込んだその表情は。瞳を見開き口を半開きにした状態のまま、虚空を見つめ固まっている。
…しっかりしろ…おい！長門！長門！！
「失礼しま〜す！」
…このシリアスな状況下において、まるで場違いの脳天気な挨拶を伴いながら、背後にある部室のドアが開いていく。
油の切れた蝶つがいが、キィィィーと耳触りな音を響かせて。
思わず振り向いたその先、ドアの向こうから姿を現した奴はというと…
「キョン、今日の数学の宿題の件なんだけど…って、ぬわーっ！！」
お前はッ…何故今このタイミングで、ここに現れるんだ！
谷口ーッ！！
「い、いや…その、やっぱりそうか…そうだったんだなお前ら…や、ヤボな事しちまって…」
言うが速いか、俺に反論の隙も全く与えないまま、それでも一応丁寧にドアを閉め直すと、奴はおもむろに駆け出していった。
あぁーーー
今回のこの状況は決定的だ。二人きりの部室で抱き合い、顔を寄せ合うようにしている俺と長門。
男女の仲を、誤解されても仕方が無い。
朝倉の時といい、何でこう間の悪いタイミングであいつは…
って、まてよ…
もし、長門の機能が停止しているのが関係しているんだとすれば。
因果律をコントロールする力、ありていに言って、人払いをする力が失われているんだとすれば。
何時、ハルヒの奴がここに現れてもおかしくないって事じゃないのか！
冗談じゃない、あいつがこんな状態の長門を見たら、興味津々好奇心満々で大変な事になっちまう。
何とかしないと…
おい、長門…おい！
「………………………………呼んだ？」
ぱちっ、と瞬いたまぶたに呼応して、瞳がゆらゆらと空をさまよう。
一瞬焦点を失ったそれは、瞬時に俺の間抜け面…さぞかし…を捉えた。
今のリアクション、まさか寝てましたとかいうオチじゃないだろうな。
さっきまでの緊迫感は何処へやら、すっかり拍子抜けしちまったぞ。
「………………………………全身の制御回路を遮断し、全ての処理能力を思考に回していた」
そういう紛らわしい事をする時は、今度から一言断りを入れてからにしてくれ、頼む。
「決めた」
何をだよ。
安堵し、そして熱くなりすぎていた自分への照れもあって、ぶっきらぼうな受け答えになってしまったが。
無論、長門はそんな俺の態度の変化など、微塵も気にしてはいないであろう。
「………………………………手伝って」
おぉ、そうか！なら早速…
「………………………………あなたは助手」
…おい、助手って何だ？
大体俺が助手だとして、耳かきは誰に頼むつもりなんだ。
今のお前の姿を見せても問題の無い人物、ってのは非常に限られるんだぞ。
長門の正体を知っている、ありていに言うなら、朝比奈さんと小泉だけって事だ。
「………………………………来た」
来たって、誰が…
「遅くなりました〜」
その声は、朝比奈さん？
振り返ると、開いたドアのすき間から顔を覗かせているのは、確かに朝比奈さんその人である。
「…あれ〜、キョンくんそんな所で何してるの……っ！！」
はっ、と息を飲む音が、窓から差し込む西日に照らされ、茜色に染めあげられた夕暮れの部室に木霊した。
片隅でうずくまる俺に向けられた好奇に満ちたまなざしは、腕に抱かれた長門の姿を捉えた途端、みるみる非難の色に染まっていく。
ち、違うんです！これは、長門の奴の調子が悪くてですね…
「い、いちゃついていたん…ですか？」
…この人は、自分の言っている言葉の意味が分かっているのだろうか…
そんなんじゃ無いんです。見てやってください、長門の様子を！
「…」
いやあの、そんなに眉間にシワを寄せながら近寄ってこなくても大丈夫ですから。
あからさまに疑ってるよなぁ、あの表情は。
「こ、この時代の高校生はせ、性的に随分だ、だらしないと聞いていましたから、ぜ、全然ショックなんて受けていません…よ？」
や、そんなに声を震わせながら言われても、説得力ありませんから。
第一、長門をこの時代の高校生と言う事自体、無理があるんじゃないかと。
一部にはそんな奴らがいるかもしれませんけど、オレや長門は無関係です。
当然ここはキッパリと否定すべき所であるが、しかし。
「でも、キョンくんだけは違うと思ってました…それなのに、まさか長門さんとそんな…」
などと、少しも俺の話に耳を傾けてくれていない所を見ると、余程ショックだったらしい…
「長門さん、長門…あ、あれ？」
とは言え、声をかけても全く反応が無い長門の様子を目の当たりにして、やっと異変に気付いてもらえたようだ。
ぺしぺしっと、長門の頬を叩いたところで反応は無い。
「動きませんね」
ええ、それで困っているんです。
「まさか、壊れて…」
長門の正体を知っていれば、誰でもそう思っちまうよな、正直なところ。
「…早く」
と、突然。俺の腕に抱かれた長門の唇が震え、かすれた声でそう促した。
「わ、わーっ、しゃ、喋りましたー！」
いくら何でも驚きすぎですよ、朝比奈さん。それじゃ長門に失礼です。
「…説明して」
言葉短く、それだけの事を伝え終わると。長門は瞳を見開いたまま、再び沈黙してしまう。
「せ、説明…？」
神妙な面持ちでこちらを見つめてくる朝比奈さんは、何故だか瞳を潤ませ頬を紅潮させているではないか。
あ、いや…説明と言うのはですね…
「ふ、二人の…か、関係について…ですね？」
断じて違います！さっきから関係も何も無いって言ってるじゃないですか！
「ず、図星です！図星だから逆ギレするんです！」
いや、冷静になって聞いてください！
「嫌です！そんな不潔な話、聞きたくありません！キョンくんのヘンタイ！！」
だから違うんですーー
…
結局、目をつむって両手で耳を塞いだまま、イヤイヤと頭を左右に振り続ける、駄々っ子の様な逃避状態の朝比奈さんを、なだめすかしながら。
事のあらましを説明し終えるために、数分という今この状況において大変貴重な時間を無駄に費やしてしまった事についてはとやかく言うまい。
「な、なんだぁ〜、そういう事だったんですね、てへへー。わたしてっきり…」
てへへー
朝比奈さんの説得に要した苦労が、その一言で帳消しにされてしまうのはなんだか釈然とはしないものの、今はそんな事にこだわっている場合ではないのだ。
ま、分かってくれたのならそれで良いですから、早速手を貸してください。
「あ、すみません。それは構いませんけど…」
それなら、まずは長門を移動させましょう。
いわゆるお姫様だっこと言う奴で長門の身体を抱え上げ、朝比奈さんに軽く拭いてもらった部室のテーブル上へ仰向けに寝かせる。
「大丈夫なんでしょうか」
微動だにしないまま机の上に横たわる長門を見下ろしつつ、朝比奈さんは神妙な面持ちで呟く。
「…お願い」
長門の指示を受けながら、必要な準備を整えていく。
俺は、部室のドア脇に備え付けてあった非常用の懐中電灯を手に取り、そして朝比奈さんの位置から耳の穴が見え易いよう、横になった長門の頭の向きを調節する。
こんなもんでいいか。
そして朝比奈さんに、以前長門が生成した例の耳かきを託した。
自分で耳かきする時のために保存しておいたものが、こんな形で役に立つ事になるとはな。
「あの〜いいんでしょうか、本当にわたしで？キョン君が掻いた方が…」
いいんです、それが長門の指示ですから。
きっと何か、こいつなりの考えがあるんだろう。
俺と朝比奈さんは、長門の左耳が良く見える位置にパイプ椅子を並べて置き、腰をおろした。
「そ、そうですか…じゃ、懐中電灯を横から照らしてもらえますか、そう、その位置で」
こんな感じですかね。
親指でパチッ、と本体のスイッチを滑らせると、青白い光が長門の耳の穴を鮮明に照らしだし、その奥の様子をぽわりと浮かび上がらせたのであるが。
「うわぁ…」
うわぁ…
二人して思わずハモってしまう程、その、なんだ…長門の耳の穴の中は汚かった。
思えば、普段は髪の毛でほとんど隠されているし、そもそも長門の耳をまじまじと見る機会も無いので気付かなかったが、中には赤黒い蝋のような耳あかがベットリと詰まっているようだ。
「普段は、綿棒で手入れしていたんですね。自分では掻き取っているつもりでも、先端が太いので垢を奥に押し込んでしまいがちなんですよ」
などと、何故か耳かきに詳しい朝比奈さんである。
それじゃ、早速始めてください。
「…待って」
どうした長門？まだ何か必要な事でもあるか。
俺としては、一刻も早くお前の耳あかを残らず掻き出してもらいたくて、うずうずしているんだがな。
「…耳はとてもデリケートな器官」
あぁ、それに関してはお前の再三の忠告によって、重々承知しているつもりだ。
「…だから、わたしの感覚をあなたにフィードバックする事で、彼女に適確な処置を施してもらう」
感覚をフィードバックする？
すまん、もう少し具体的に言ってくれないか。
「…特別な事は何もしなくていい、ただ…」
ただ…？
後編に続く。