「…フィードバック回路を形成するために、あなたとわたしの神経路を接続する必要がある」
神経を接続するだと？
また、随分妙な事を言い出したな…
「…指先から脳へ信号を伝搬するため、あなたの指を咥える」
なんだ…そんなこと、ハルヒの思いつきで要求される無理難題に比べればちっとも…
って！ちょ、ちょっと待て！
「…早く」
今、指を咥えるとかなんとか…って聞こえたが、聴き間違いか？
「…間違いでは無い」
それはなにより…
なんて、納得している場合ではないだろうなぁ、やはり。
それはマズいんじゃないか、色々と…
チラリ、と横目で朝比奈さんの様子を伺ってみたが、興味津々といった面持ちで長門に視線を送っているだけで、問題発言を止めようとする様子は無い。
「…大丈夫、問題無い。早く」
…分かった、とりあえず手洗ってくるから。ちょっと待っててくれ、な。
「…人体表面に付着する細菌による感染の危険性は無い、心配は無用」
「あ、キョン君、今日まだ使っていないハンカチがありますよ。ポットのお湯で濡らして拭きましょうか」
いや長門、俺はそんな事を心配しているんじゃなくてだな。それに朝比奈さん、そういう処にまで気を使って頂かなくてもですね、その…
「…時間を無駄にすべきではない」
「あまりのんびりもしていられないのでしょう、さぁ」
そ、そうですか…
二人に畳み掛けられては、抵抗する術などある筈もなく。
妙に手際の良い朝比奈さんによって、ほんのりと暖かいハンカチで優しく包み込まれた左手の中指を丁寧に拭かれていると、なんだか妙な気分になってきた。
こうなったら長門、恨みっこ無しだ。心いくまで俺の指をタップリと咥えてもらうからな！
「あの…キョン君、やる気になってくれたのは良いんですけど、流石にその言い方はどうかと…」
目の前で朝比奈さんが困惑の表情を浮かべているものの、今更後には引けない以上、それを気にしても仕方がない。
気持ちの整理も付いたところで、唇を薄く開いている長門の口元へと、左手の中指を伸ばす。
形の良い上唇に触れた瞬間、プリッとした弾力に押し返され、ヒリヒリと焼けるような刺激が指先を包み込んだ。
ひるみながらも、唇の弾力と抵抗、温もりを渾然一体と感じながら、口腔の中へ指先を押し進めていくと。
コツッ、と爪が前歯を小突いた。
いいのか、もっと奥まで入れて？
「…ぃぃ」
俺の指を咥えながら、発音し辛そうにモゴモゴとどもりながら返事をする長門。
なんだかこの態度…妙に甲斐甲斐しくてそそられるものが…
「キョンくん、にやけてますよ」
朝比奈さんの凍てつくような声が、文字通り冷や水のように浴びせかけられ、背筋に震えが走る。
…いかんいかん、危うく本来の目的を見失うところであった。
気を取り直し、前歯を軽くこじ開けるようにしながら指先を進め、中指の第二関節くらいまでを咥えこまれたところで、指先がぬるりとした生温かい物体に触れた。
生々しい弾力的な感触、これは舌だな。
「…ぉ…ぁ…ぃ…」
もはや聞き取れないほどの調子で、もごもごと喋る長門の言葉から判断するに、そのままにしていろという事らしい。
すると、口内で舌先がゆっくりと動き始め、品定めでもするように指先を舐め回していく。
ねっとりとした唾液に包み込まれた指先は、徐々に長門の中の温度を奪って火照り、実在感を失っていく。
まるで、長門の中に溶け込んでいくように。
その体温を感じれば感じるほど、感覚は遠のいていき…
…っ！
ふと、チクリと刺すような軽い痛みを感じ、ふわふわと虚空を漂っていた意識が現実に引き戻された。
「…ぇ…っぅ…ぅ…ぃ…ぁ」
接続？終わったのか？
て事は、どうやらこれで準備完了のようだな。これの何がどうフィードバック回路なのかは、さっぱり分からんが。
それじゃお願いします、朝比奈さん。
「あ、はい…」
ほうけたような表情の朝比奈さんは、俺たちの様子を見て心なしか高揚していたようだ。
「じゃ、じゃ、その角度のまま照らしていて下さいね」
ええ、朝比奈さんの頼みとあれば、まるで精密機器さながらに微動だにしませんよ、任せてください。
「もう、キョンくんたら」
などと軽口をたたいてはみたものの、これは意外とキツいかもしれない。
懐中電灯を握りしめた右腕は、耳を照らす光軸がぶれないよう固定していなければならず、指先を長門に咥えられている左腕も自由に動かすことができない。
非常に不自然な体勢を続けることを、強いられている訳である。
「では、いきます…」
普段の緩い調子とは異なる凛とした声色から、朝比奈さんの緊張している様子が伝わってくる。
ツーーーッ…
はぅあ！
「キョ、キョン君！どうか…したんですか？」
落雷にでも打たれたかのようにビクリと全身を震わせ、全く予期せぬ出来事に思わず奇声をあげた俺に。
朝比奈さんは、まるで気の毒な人を見るような視線を向けているではないか。
いや、今、耳に凄い刺激を感じたんです！
触れるか触れないかのぎりぎりの絶妙な力加減で、耳の中のデリケートな部分をやさしく撫でるような、それでいてしっかりと掻かれるような、それはもう気持ちが良いというかです…ね？
そんな俺の言葉に、朝比奈さんは頬を真っ赤に染めてうつむいてしまっている。
と、いうことは…
長門の言っていたフィードバックとは、耳かきによる耳への刺激を俺に伝え、あたかも俺自身が耳かきされているよう錯覚させるのが目的なのだろうか。
「そう…みたいですね。それで、もし耳かきが深く入りすぎたりした時は、その痛みが伝わるようにでしょうか」
長門の奴、そこまで耳掻きに不信を抱いているとは。こりゃ筋金入りだな。
いや、まてよ。
つまり、今の実に心地よい細波のような刺激は、朝比奈さんの手業なんです・・・
「キョ、キョン君！懐中電灯がずれてますよ」
おっと、すみません。
予想だにしなかった快感に驚いたせいで、手の方が疎かになり、懐中電灯はすっかりあさっての方向を向いてしまっていた。
で、今の心地よい耳かきは朝比・・・
「つ、続けます！」
言うが早いか、再び、匙の先が耳の穴に触れる感触。
どうやら、朝比奈さんは自分のテクニックについては触れて欲しくないらしい。
ま、今は変に意識を乱されても困るし、耳かきが終わった後でゆっくりと聞いてみることにすればいいか。
カリ．．コリコリ．．．
それにしても、目の前でちょこちょこと動いている耳かきの動きと、自分の耳の中に受ける刺激がシンクロしているというのは、実に奇妙なものである。
カリカリ．．．カリカリ．．．ガガッ
サジの先に耳垢が引っ掛かり、めくれ上がると。チクチクとこそばゆい刺激が、耳の中を駆けめぐっては消える。
重なり合う耳垢の層は厚く、なかなか苦戦しているようにも見えるが、朝比奈さんは表面から少しづつ丁寧に引き剥がし、掻き出しているようだ。
「痛くないですか？」
ええ、問題ありません。
むしろ、気持ちいいくらいですよ。
「それにしても、随分溜まっているものですね．．．」
それはまぁ、本人の思考がおかしくなるくらいですから。
しかし、幾ら長門が精巧に造られていたとしてもだ、人間のように垢が溜まるところまで似せる必要があるのだろうか。
長門の雇い主は、有機生命体を模倣することに随分ご執心しているとみえるが、どうも腑に落ちない。
長門の耳に溜まっているものは、一体何なのか。
そんな素朴な疑問を、朝比奈さんにぶつけてみると。
「見てみますか？」
カリカリッと耳の穴の根元を掻き、ゆっくりと取り出された耳かきのさじ。
先端には、乾いた石鹸のような耳垢が付着している。
ただの耳垢のようには見えませんね。
「ええ、人の耳垢とは違いますね。洗髪中に耳の穴に入ったシャンプーの泡などが、そのまま埃などと一緒に乾燥してしまったのではないでしょうか」
なるほど、そういうものですか。
さすがに、有機生命体の新陳代謝までをも、忠実に再現しているという訳ではなかったようだ。
長門も、あれだけ耳かきを警戒していた様子からして、普段は耳の手入れなど全くしていなかったんだろう。
晴れて耳垢の正体も分かり、耳かきの刺激にも慣れてくると、朝比奈さんの手技を堪能する余裕も出てくるというものである。
クッ．．．
徐々に掻き削られた結果、臼のような状態になった耳垢の層に、サジの先が食い込んだ。
む、ちょっとキツいか。
ググッ．．．グッ．．．
朝比奈さんは、耳かきの侵入を阻むように固く閉ざされた耳垢の壁を、一気にこじ開けようとしているようだ。
さじの先で、わずかな割れ目を取り掛かりに切り崩そうとしているが、蓄積された耳垢は予想以上に固いのか、なかなか思うようにはいかない。
グググ．．．
耳かきを握る朝比奈さんの指先にグッと力がこめられると、もの凄い太さの異物がグイグイと侵入してくるような圧迫感が耳の中に広がった。
ああっ！ちょっと朝比奈さん、き、キツッ、キツすぎます…
胸の奥に芽生えた恐怖が急速に膨らみ、思わず生娘のような…勿論実体験に基づく知識ではないが…情けない声を上げてしまった。
「ご、ごめんなさい。ちょっと焦ってしまって」
も、もうちょっと優しくしてください…
ギュッ、と耳かきが引き抜かれると同時に、身体の力が抜け虚脱感が全身を被う。
知らずうち、随分とリキんでしまっていたようである。
「これは手ごわいですね…あ、そうだ」
何を思いついたのか、朝比奈さんは自分の鞄を取り寄せると、ごそごそと中を探りだした。
取り出したものは、透明なカバーのついた青いプラスチックのケース。
その中に入っている物は、もしかして…
「これこれ〜」
これこれ〜って、やっぱり彫刻刀を使うつもりですか！
「大丈夫です、信じてください」
ケースの中に収まっている６本の彫刻刀の中から、刃先が斜めにカットされた細い三角刀を手に取り、目の前にかざしつつ指先でつまんだ軸をクルクルと回転させる。
「刃こぼれは無いですね」
朝比奈さん、彫刻刀を手にしてから口元に笑みが浮かんでいるように見えるのは、気のせいですよね…
先ほどから微動だにしていないものの、鋭利に研がれたガンメタリックの刃先が放つ鈍い光を視界の隅に捉えたのか、長門の表情にも緊張が走っているように見える。
「キョン君、ライトは少しオフ気味にお願いします、刃先に光が反射してしまうので」
言うが早いか、ヒヤリとした感覚と共に刃先が穴の入り口に触れた。
ガリガリガリガリ．．．．．．ショリショリショリ．．．
器用に操られた刃先を穴の形に沿って舐めるように滑らせると、先程まで苦戦していた耳垢の塊が、いとも簡単に小気味良く削り落とされていく。
薄く剥がされた耳垢は、パリパリッと音をたてながら砕けて、フケのように穴の中に溜まっているようだ。
ショリショリ．．．パリパリパリ．．．
しばらく彫刻刀を操ったあとは、再び耳かきに持ち替えて溜まっている削り粉を手際よく掻き出していく。
カリカリカリ．．．
「もう少しですよ、リラックスしてください」
穴の周囲には塗り固められた泥のようにこびりついているものの、耳垢はずいぶんと削られ、そろそろ耳の奥も見えて来そうな気配になってきた。
「いける．．．」
再度、指先に力をこめ耳かきを押し込んでいくと、今度はサクサクッと突き刺さるような音を伴って深々と突き刺さった。
耳垢の塊に、匙の先が噛み込んだようだ。
「引き出しますよ」
ゆっくりと前後、左右に揺り動かされる耳かきの動きに合わせ、バリバリバリッという激しい音と共に、豪快に耳壁から耳垢の塊が剥がされているようだ。
同時に、思わず身をよじってしまいそうになるくらいの猛烈な痒みが、耳の中を襲ってきた。
ああああーっ、このチリチリとした痒みは辛抱たまらん．．．
バリ．．．パリッ．．．バリバリバリ．．．パリ．．．．．
耳垢の剥がれる音が止むと、今度は小刻みな往復運動と共に、少しずつ耳かきを引き出していく。
耳の中でギュッギュッと耳垢の塊が前後し、擦りつけられることで、先程までの痒みという痒みの元が掻きあげられて快感に変わっていく。
おぉぉぉぉぉあぁぁぁ〜
全身を満たす程の快感に浸り、無意識の内に実に情けない、声にならない声を漏らしてしまった。
ハッとして朝比奈さんの様子を伺うも、こちらの様子などお構いなしに集中してくれていたのは幸いである。
ギュッギュッ．．．ズリ．．．
ズッズッズッズッ．．．ズズズズズ．．．ググ．．グ．．．
スポッ
そんな効果音が錯覚として聞こえてくるくらい、取り出された耳かきの先には、見事な程ねっとりと大きな塊が絡み付いていた。
所々崩れてはいるものの、綺麗に穴の形通りの円筒形をしている。
そして左耳に広がる、怒涛の解放感。自分の耳は詰まってなどいなかった筈だが、長門からのフィードバックによって感覚を共有してしまっているらしい。
それにしても、こんなものが詰まっていて、異物以前によく耳が聞こえていたものだな。
もしかして、音は別の器官でも捉える事ができるようになっていたりするのだろうか。
「どうです？」
ちょっと得意気な朝比奈さんに促され長門の耳の中を覗いてみると、見違えるように綺麗になった穴のその奥には、乳白色の幕が見えていた。
あれは、鼓膜？なら。
調子はどうだ、長門。
「ぁいぅぅしぁ」
おっと、もう指の方は必要ないな。
刺激を与えないようにそっと、チクッとした刺激を再び味わいつつ、舌から指先を引き剥がし。
糸を引いた唾液を垂らさないよう注意しながら、長門の唇から中指を引き抜く。
指先に残った口の中の温もりがなかなか消えてくれないので、妙な感じだ…
「回復した」
それにしても、指先と唇の触れ合いにドキドキしているこちらの方がおかしいのかと思える程、長門の様子は淡々として変わりがない。
ま、会話の反応速度も問題無し、いつも通りの長門に戻ったくれただけで良しとしよう。
どうだ耳かきは、悪くないもんだろ。
「悪くない」
ちょっと意地悪な質問だったかもしれないが、ぶっきらぼうな受け答えの裏には、心なしか照れている様子も見てとれる。
長門が人間と同じように快感を感じているのかは分からないが、少なからず気持ちの良さは伝わっているだろうからな。
「反対側はどうしましょうか？」
「それはまた今度」
おいおい、お前の耳垢の状態を目にしてしまった以上、右耳を放置しておくのも気になるんだが。
横で朝比奈さんも激しくうなずき、同意してくれている。
「片側だけ回復すれば、当面問題は無い」
ひらり、と軽い身のこなしで横たわっていたテーブルを降りた長門は、本棚から一冊の本を手に取り、そしらぬ風でいつもの壁際のパイプ椅子に座った。
ん、何なんだ？
「そろそろ戻って来るはず」
戻って来る？
あぁ、ハルヒの奴か。なるほどな。
俺と朝比奈さんは、耳かきに使用した小道具などを手早く片付け、いつもの午後のように自分の役割…と言っても、俺は単に適当なマンガ本を読みながら時間を潰しているだけだが…に戻る。
指先に残る唇の感触と、左耳に残る耳かきの刺激はまだ残ったまま。しばらくはその余韻に浸るとしよう。
「ありがとう…」
静かな午後の部室で、静寂にかき消された長門の呟きは、朝比奈さんに届いただろうか。
fin.