二人での夕食を終えて居間でくつろいでいると、洗い物を終えた雪さんが、すっと僕の隣に腰を下ろした。
いつもどおりの物腰。ただ、いつもより雪さんとの距離が近い感じがする。僕に寄り添うようにして座っている。
思慮深く献身的で、距離感というものをわきまえている彼女は、普段から必要以上に深く接してくるようなことはない。
だから、それは別に嫌なことではなかったけれど、ちょっと不思議な気がした。
もっと甘えてくれたりしたら、などというつもりはなくても、もう少し肩の力を抜いて好きにしてくれたら良いのに、と思うことはある。
ただ、それを言えば雪さんのこと、「メイドとしてトウヤさんにお使えするのが雪の務めです、好きにしろだなんて．．．」と.、悲しそうな顔をするんだろう。
そんな雪さんが、今日はどこか様子がおかしい。
座る位置がいつもよりちょっとだけ近い、というのは些細な事だけど、何の理由もなく普段の位置関係を崩すような真似はしない人だと思うから。
「あの、トウヤさん？」
もの思いにふけっている間、ボーッとしているように思われたのかもしれない。耳元の雪さんの声で、現実に引き戻された。「まだ、調子が優れないのでしょうか？」
事故の後遺症のことを言っているのだろう、心配そうに僕の顔を覗き込んできた雪さんと、いつもよりずっと近い距離で目があう。雪さんの事を考えていたから、なんて恥ずかしくて言えない。
だから、そんなことないよという僕の答えは、照れ交じりで少しぶっきらぼうな感じになってしまったかもしれない。
「それなら．．．安心しました」
でも、雪さんはその答えに満足してくれたようだ。にっこりと柔らかい、いつもの微笑みを返してくれた。
「では、雪からのお願いがあるのですが」
あらたまっての雪さんのお願いとは、なんだろう。「トウヤさん、その．．．耳の中が少し汚れているようです」
その言葉に、なるほどと合点がいった。距離を近く感じたのは、耳を観察しようとしていたせいだったのだろう。
それなら、後で綿棒ででも掃除しておくよ、と軽い調子で答えると。
「そんな．．．雪にお手入れさせてください！」
と、強い口調で返された。手入れ．．．というと、耳かきのことだろうか。
耳かきくらい、別に雪さんの手を煩わせるほどのことでもないと思うけど。
「危ないです、トウヤさんがご自分でなさっては手元が狂うかも知れません！」
随分おおげさだなと内心苦笑しつつ、その言葉でなんとなく雪さんの真意が伝わってきた。「だめ．．．ですか？」
悲しそうな顔、その顔をされると弱い。理屈はともかく、とにかく雪さんはぼくの耳かきをしたいということらしい。
そんな顔をされて断れるわけはないし、断る理由もなかった。
「では、ここへ」
メイド服のスカートを優雅になびかせながら正座し、満面の笑みを浮べつつ、ふっくらと膨らんだふとももをぽんぽんと叩いて、僕を誘う。「もちろん、ひざまくらでです」
それはさすがに少し恥ずかしい気がしたけど、それ以上に魅力的な誘いでもある。言い訳ではないけれど、男なら誰だってそう思うだろう。しばしの葛藤の後、雪さんがしたいと言ってくれてるんだからと自分を納得させて横になり、重かったらごめんねなどと軽口をたたきつつ、雪さんのひざの上へと頭をのせる。
そこはひどく柔らかく、メイド服越しに伝わってくる温もりは、雪さんの胸に優しく抱きかかえられているような心地よさだった。
このまま眠りに落ちてしまいそうなほど、気持ちがいい。
雪さんは既に準備済みだったらしく、どこからか耳かきを取り出すと右手に軽く構えた。
耳の穴がよく見えるようにという配慮か、僕の耳たぶを優しくつまむ。
「では、さっそくいきますね．．．」
すっと差し込まれた耳かきの先が、カサカサッと産毛をかき分けて耳の穴に触れた。ひんやりとした冷たい感触、使っているのはよくある竹の耳かきではないようだ。
「銀の耳かきです、雪の愛用品です。耳当たりが優しいんですよ」
なるほど。そう言われてみると、金属でありながらソフトな感触がする。雪さんの愛用品ということは、彼女自身この耳かきで自分の耳を掃除しているということだろうか。
つまりは、雪さんの耳を掃除したものと同じ耳かきが、今僕の耳の中にあるということで。
だんだんと暖まってきた耳かきから、彼女の体温が伝わってくるような不思議な感じがして、胸を拍つ鼓動が早まる。
って、不謹慎な思いかもしれないな、雪さんに対して。
そんな不埒な僕をよそに、雪さんは耳かきを静かに動かし始めた。
まずは産毛の上を細かくスライドさせ、表面のアカをかき集めている。少しこそばゆい。
それが終わると、今度は少し力を入れて皮膚に張り付いているアカを掻いていく。くっ、くっと内側を丁寧に掻き上げられるたび、ぞくっとした快感が背筋に伝わる。
雪さんはちゃんと耳の中を観察しているのか、掻く位置を小まめにずらしながら、内側全体をまんべんなく掻き上げていく。
「では、もう少し奥まで入れますね。じっとしていてください」
そう言われ、思わず身構えてしまった。痛くはないのだろうか。「ふふ、雪にお任せください」
もはや、雪さんがそう言うなら任せようという気分だ。耳かきの先はさらに奥へと進み、先程よりもさらに繊細な手つきになっているのが雰囲気でわかる。
ススッ、と操られる耳かきの先端は、内壁に触れるか触れないかという絶妙な位置で、耳の奥底にある耳アカをかき出していく。
こ．．．これは気持ちいい。
「なに．．．してるの！？」
その声は、花梨？「急に声をかけないでください、びっくりして手元が狂ったら危ないです」
そう言うわりに、耳かきを続ける雪さんに危なげな様子は全くない。まるで、花梨が来ることが分かっていたかのように。
「なにしてるのかって聞いてるんだけど？」
「見て分かりませんか、トウヤさんにひざまくらと耳かきをしてさしあげているところです」
「そんなの見れば分かるって！わたしが言いたいのはそういうことじゃなくてね」
それに、せっかく耳かきがいいところだったのに、花梨に向き直った雪さんはその手を止めてしまい、残念で仕方がない。
「どうして雪がそんなことまでするのよ」
「雪はトウヤさんのメイドだからです、身の回りのお世話をするのは当然です」
「だ、だからってひざまくらまですることないでしょ、それに君も、いつまでそうしているつもりよ」
それにしても不機嫌な花梨。僕がひざまくらされていることが、そんなに気に入らないのだろうか。
対する雪さんをひざまくらされたままの体勢から見上げると、心なしか口元に笑みが浮かんでいるような。
「だって、トウヤさんはこうされるのがお好きなようなので」
そういって、雪さんは僕の髪を軽くなでた。「．．．！」
部屋はビリビリと刺すような怒気に満たされ、辺りは静寂と緊張感につつまれた。気を放っているのは、もちろん花梨だ。しかし、雪さんは平然としたもの。
「さ、トウヤさん続きを。今度は左耳です。あ、花梨さん、用がないならお帰りください」
いつになく、攻撃的な雪さん。容赦がない。しかし花梨も負けじと、僕たちの目の前にどっかりと腰をおろした。
「なんのつもりですか？」
雪さんの声のトーンが下がった。口元の笑みも消えている。
「それ貸して、左側はわたしがやるから」
「お断りします」
「なんでよ！」
「雪の仕事を取らないで下さい」
「雪！あんた調子に乗るのもいいかげんに．．．」
これはさすがにマズいと、反射的に身を起こし二人の間に割って入る。
「止めないでよトウヤ！」
「トウヤさん、危ないのでお下がりください」
二人を止めて正解。雪さん渾身の一撃を食らって、花梨が無事でいられるとはとても思えない。
良くて肋骨の２、３本、当たり所が悪ければどうなるかまでは、本当に予測がつかない。
なのに、花梨の方はなんで止めるのよなどとわめいている、やれやれ。
じゃ、続きは花梨にしてもらうってことで。
僕の声に花梨は歓喜の雄叫びを上げ、対照的に雪さんは苦渋に満ちた絶望的に悲しそうな表情をしている。
「そんな．．．何故ですトウヤさん！」
本当にゴメン。ただ、明日もまた花梨と一緒の教室で勉強する僕の身にもなって欲しい。平穏無事な学園生活を送るためには、仕方ないんだ。「へっへー、じゃ雪、それ貸して！」
得意げな花梨から顔を背けながら、震える指先で愛用の耳かきを差し出す雪さん。「よしよし、ほらトウヤ、ここ、ここ」
それを鷲掴みした花梨は、正座したひざの上に僕の頭を招くような仕草。彼女の服装は、いつものヘソだしルックにショートパンツ。怖くて雪さんの方を見られないままおとなしく頭を載せると、むちむちとした生肌の感触が頬と後頭部に伝わってきた。
うーん、雪さんのひざの上も良かったけど、花梨の太もももなかなか。特に、生肌ってのがポイント高い．．．
「トウヤさん、顔がにやけてます」
凍てつくような雪さんの声。ま、まずい。「しょうがないよねー、気持ちいいんだもんねー」
上機嫌な花梨の言葉に反応するように、ギリッギリッと聞こえた音は、まさか雪さんの歯軋り？．．．聞いてはいけないものを聞いてしまったかもしれない。
「えーと、じゃ、いくね」
雪さんの様子は気になるけど、花梨がどんな風に耳かきしてくれるのかも気になる。期待と緊張でわくわくしてしまう僕を、誰が責められよう。と、視界の片隅に、耳かきを握りしめて右手を振り上げる彼女の姿が。
え？あの、花梨さん一体何を．．．
問いかける間もなかった。
次の瞬間、ぐさ、と音がしたような気がして、激痛が左耳を襲う。
なんて冷静に言ってる場合じゃなくて！耳かきを掴む花梨の右手をはねのけ、半端じゃない痛みに声にもならない悲鳴を上げつつ跳び起きる僕。
「あ、あれ？痛かった？」
「トウヤさん！！」
「良かった．．．鼓膜は無事です」
安堵の声。とりあえず鼓膜が無事でよかった。ん、その割に左耳がずきずきと痛むんだけど、他のところは？
「鼓膜は、無事です」
どうやら、それ以上は聞かない方が賢明らしい。結局、花梨は雪さんにしこたま叱られた後、すごすごと帰って行った。
そういえば、何か用があって来たのではないのだろうか？彼女の行動には謎が多い。
「申し訳ありませんトウヤさん、雪がついていながらこんな事になってしまって」
自分が悪いわけでもないのに、深々と頭を下げる雪さん。銀色の髪の上で、トレードマークのヘッドドレスが揺れている。お陰で、花梨への怒りもすっかり収まってしまった。
「これでは、当分左耳は安静にしておいた方がいいですね」
安静・・・痛みよりなにより、当分は耳かきがおあずけになってしまうということが残念でならない。どうやら、今の一件ですっかり雪さんの耳かきの虜になってしまったようだ。「ふふ、直るまでは右耳だけで我慢してくださいね」
微笑みながら、優しく僕の右耳をなでてくれる。じゃぁもう少し右側の続きを・・・「掻き過ぎはよくありません、続きは一週間後です」
さすが雪さん、甘やかし一辺倒ではなくきちんと節度をわきまえているところなど、メイドの鏡。そういうことなら、左耳の完治を願いながら、一週間後のその日を楽しみに待つことにしよう。
雪さん、洗い物まだ終わらないの？
「ごめんなさい、あと一枚お皿を洗ったら終わりですから」
食後のひととき、台所で食器を片付けている雪さんを待つ。普段なら、洗い物など雪さんに任せっきりで気を揉むことなどないのだけれど、今日ばかりはそういう訳にもいかない。
何と言っても今日は．．．
「はい、おまたせしました」
彼女の右手には、銀色に輝く小さな棒。そう、今日は週に一度の耳かきの日だから。
あの日以来、僕はもう耳かきの虜。
でも、雪さんは一週間というインターバルを頑に守るので、自然、それは週に一度の楽しみということになっている。
ふわり、と風圧でスカートを膨らませて雪さんが座るか座らないうちに、彼女の太ももを目指して横になる僕。
ぐりぐりとひざの上で頭を動かし、安定度を高める。
これでよし、吸い付くようなフィット感に包まれ、リラックス度合いは最高潮。
「もう、トウヤさんたら」
苦笑いする雪さん、いいから早く。「では．．．」
放課後教室を出ると、廊下で話をしている花梨と庄一を見かけた。
「ほら庄一、今日もいくよ」
「え、今日もか！？勘弁してくれよ、ほんと。そんなに続けられたら身が持たないって」
「なによ、若いんだからどってことないって、ほら早く、部活始まっちゃう」
それに、庄一は口では花梨の誘いを嫌がっていたようだけど、今一瞬とても嬉しそうな表情をしていたような．．．
翌日の放課後。
教科書を片付け帰り支度をしていたら、ニヤニヤと笑みを浮かべながら花梨が近寄ってきた。
「トウヤ、ちょっと付き合ってもらいたいんだけどなー」
部活なら行かないよ、僕はもう弓をひくのは無理なんだ．．．「あ、違う違う、そうじゃなくってさ、別のこと」
別の話？なら、ここで聞くけど。「いや、それがここじゃまずいんだなー、もう、いいから一緒にきて！」
何も怒らせるようなことは言っていないつもりだったけど、キレ気味な花梨を前にして、これ以上の抵抗は無意味な気がした。そこに現れたのは、庄一。
「なぁ、花梨、あのさ」
「ごめん、庄一。部活はちょっと遅れるから」
「いや、部活の話とかじゃなくて、あの．．．」
庄一の方はというと、僕の机に手をついたまま、がっくりとうなだれている。
何があったのかは分からないけれど、まるで昨日とは対照的だな。
花梨に連れてこられたのは、人っ気のない屋上だった。
「ここなら人が来ないからねえ」
毎度のことながら、花梨の行動は予測が付かない。屋上で二人きりになって、何をしようというのだろうか。緊張が走る。
「へへ、これこれ」
花梨の右手に握られているのは．．．耳かき！いやおうなしに蘇る、あの日の悪夢。
「ほんと、悪かったと思ってるんだ、この間は。加減とか知らなくてさぁ」
悪かった、で済めば話は簡単なのだけれど、実際問題、あの後一カ月近く後遺症に悩まされたわけで。と言っても、単に雪さんが「完治するまではだめです」といって、耳かきをしてくれなかったというだけのことなんだけど。
「でもね、雪にあんな挑発的な態度を取られたら、女としては受けて立つしかないっていうか．．．ま、それはともかく」
確かに、あの時の雪さんは普段とは少し違う感じだったけど。「特訓したのよ、耳かきを」
特訓？それで合点がいった、特訓の相手をしていたのは庄一なのだろう。
花梨の耳かきなら、庄一が嫌がるのも分かる。しかも、あの口ぶりだと毎日やっていたようだし。
ただ、だとすると昨日の嬉しそうな表情が腑に落ちない。今日の様子も少しおかしかった。
「特訓の成果がかなりイイ線まできたので、今日はお披露目させてもらおうと思ってるわけよ。日もいいしね」
正直なところ、この間のこともあるし、お披露目と言われても素直には喜べないんだけど。「いいから、だまされたと思って、ほら」
ほんとにだまされて、また雪さんに耳かきしてもらえなくなったりしたらどうする？なんといっても、今日は雪さんの耳かきの日なんだし。
断るなら、今だ。
と、悩んでいる余裕もなかった。襟元を掴まれ、ぐいっと強引に花梨の太ももへと頭を誘われたから。
こうなったら、もう腹を決めるしかない。
というより、花梨の太ももの具合が良くて、もうどうにでもなれという気分になってしまったというか。
僕は、本当はダメな奴なのかもしれない。
「あんまり固くならないの」
どうやら、身構えるあまり全身に力が入っていたらしい。その言葉とともに、耳元を覗き込む花梨の吐息を感じる。
「あるある、やっぱりね～。今日あたり、雪に耳かきしてもらうんじゃなかったのかな～」
な、なぜそれをっ。「だって、毎週水曜日はそわそわしながら帰ってるじゃない、バレバレよ」
確かにそれはその通りで、家に帰れば雪さんに耳かきしてもらえると思うと、うきうきと心踊っていたのだけれど。そんな、はた目にみても分かるくらい態度に出てしまっていたとしたら、かなり恥ずかしい。
「ま、そんな生活とも今日でお別れってことで．．．」
なんとも不穏な発言に合わせて、花梨が操る耳かきの先端が近づく気配。ああっ、入ってくる！と恐怖に身を縮めた瞬間、耳の穴の入り口を優しく掻かれた。
カリッ、カリッ、と物凄く繊細な動きで、産毛にまとわりついた耳アカをコリコリと掻きほぐしていく。
掻き取った耳アカが穴の奥に落ちないようとの配慮か、手元のティッシュペーパーへと集める回数も小まめだ。
少しずつサジを当てる位置をずらしながら、ぐるりと一周。その動きには、無駄がない。
表面の耳アカをあらかた取り終えると、今度は産毛をかき分け穴の内側を優しくこするように、耳かきの操作が変わる。
スッ、スッ、とストロークするサジによって、皮膚に張り付いていた膜状のアカが少しづつ剥がされ、その度にピリピリとした刺激が伝わってくる。
スッスッ、カリッ、パリッ。
耳かき先端のサジが、快感を伴ないながら面白いように耳アカを剥ぎ取っていくのがわかる。
さっきまでの緊張はどこへやら、僕はすっかりリラックスした状態で、花梨の耳かきを堪能していた。
「入り口付近はさすがにアカが少ないか。でも奥の方はまだまだ甘いわねー、ここからが花梨さん特訓の成果の見せどころよ！」
僕への問いかけではない、今のは多分雪さんに向けての発言だろう。なぜそこまで、ライバル意識剥き出しなのか。
と、耳の中にかつて体験したことの無いような刺激が！
じわーっと鼓膜を震わせるような快感が、耳の奥底から、頭全体に広がっていく。
これは一体何を．．．どうやら、鼓膜のすぐそばの耳アカを直接掻き出すのではなく、コロコロと転がしながら集めているようだ。
ただでさえ敏感な耳の奥、転がされるたびに伝わるわずかな刺激が、持続的な快感を伴なって耳の中に広がってくる。
少しでも手元が狂えば、鼓膜を傷つけてしまうのではなかろうか。しかし、そんな不安や恐怖を微塵も感じさせないくらい、花梨の耳かきさばきは的確だ。
あぁ、気持ちイイ、こんな、凄い．．．
あれ、僕．．．寝てた？
寝てしまったというより、快感に身を任せるうちに気を失ってしまったという方が適切か。
視線を空へと向けると、そこには実に満足げな表情を浮かべた花梨の顔。
その口元に悪戯っぽい笑みを浮かべ、悪魔のような一言を吐く。
「雪のより、良かった？」
えっ！？「返事次第なんだけどなー、ここで終わるか、左耳も続けるか」
そ、それは脅迫じゃないか。「トウヤには悪いけど、わたしにもプライドあるからね。で、どっち？」
一瞬、雪さんの悲しげな顔がフラッシュバックした気がした。雪さんには、日頃からお世話になりっぱなしだ。週に一度の楽しみになっている、耳かきだってそうだ。
それなのに、ここで花梨を選んだりしたら、恩を仇で返すようなものじゃないか。
でも、今は続きを．．．左耳を掻かれたいという欲求の方が強い．．．
乾いた喉から、絞り出すように唱えた名前を聞いて、花梨の口元の笑みがパッと顔中に広がる。
僕は、悪魔に魂を売ってしまったのかもしれない。
ただいま．．．あれ。
いつもなら、廊下の奥から雪さんが飛び出してくるのに、今日はお迎えなしか．．．
ちょっと寂しい。
料理の手が空かないのか、もしかしたら、この前みたいに調子が悪くて寝込んだりしているのかもしれない。
と、居間の前を通りかかると、雪さんはそこにいた。
部屋の真ん中におかれたちゃぶ台に向かい、正座をしたままじっとしている。
あ、雪さん、今帰ったよ．．．
「花梨さんから電話がありました」
雪さんはうつむいたまま、ボソリと呟いた。え、あ、そう。
背筋に冷たい汗が流れ落ちる感触。悪い予感がする。
花梨、雪さんに一体何を．．．
「トウヤに、雪の耳かきよりわたしの方が良かったって言われちゃった、と、得意げに話されました」
かーりーんーー！！どうしてそんなことを、わざわざ雪さんに伝えるんだ。「それに、これからはトウヤの耳かきはわたしがやるから、とも」
結局それが言いたかったのかもしれない、花梨の奴。「もう、雪は役立たずですね」
えーーー！どうしてそんな極論に。いや、耳かき以外にも掃除、洗濯、料理、僕はもう雪さん無しでは暮らしていけないよ。
「では、トウヤさんにとって掃除、洗濯、料理と耳かき。どれが一番大事なのですか」
え、それは．．．「どれなのですか」
う、うーん．．．耳かき。と、この状況で正直に答えてしまう僕は、バカなんじゃないだろうか。
「やっぱり！トウヤさんにとって、一番大事な耳かきが苦手な雪なんてもうダメです、ダメメイドです！！」
そ、そんなことないよ、ほんとそんなことないって。なんとかなだめようとしたものの、雪さんも根が頑固なだけにこうなると話を聞いてもくれない。
「雪は．．．雪は一体これからどうすればいいんですか！！！」
激情からあふれ出る自分の言葉に感極まってしまったのか、僕の胸倉を掴みあげガクガクと前後に揺すりあげる雪さん。お、お願いだからやめて．．．首折れそう．．．
「ごめんなさいトウヤさん、少し取り乱してしまいました．．．」
失神寸前の僕を前に正気に戻ってくれたとはいえ、雪さんは恥ずかしさからか頬を赤らめ、消え入りそうな声でそう言ったきりまたうつむいてしまった。いや、僕は全然大丈夫。それより、雪さんの方は落ち着いてくれたかな。
「はい．．．」
その日は、重苦しい雰囲気の中で二人の夕食を終えると、そそくさと眠りについてしまった。雪さんはどう思っているのだろう。
花梨との一時の快楽に身を墜とし、彼女を裏切ってしまった僕のことを．．．
翌朝目が覚めたのは、もはやどう足掻いても遅刻は免れないという時間だった。
雪さん、いつもなら起こしにきてくれるのに、やはり昨日の事がショックで．．．
遅刻なんてどうでもよかったけど、雪さんのことが気掛かりで足早に居間を目指す。
ちょっと乱暴に襖を開き、部屋の中を覗き込む。と、ちゃぶ台にメモ書きが一枚。どうにもこうにも、悪い予感がする。
近づくと、手に取るまでもなく紙に書かれた内容が見て取れた。
一言、「腕を磨いてきます」と。
一片の紙切れを残して、忽然といなくなった雪さん。
まだ三日しか経たないというのに、毎日のインスタントラーメン生活にもすっかり慣れた。
というか、飽きた。
雪さん、早く帰ってきてよ．．．
しかし、あんな置き手紙まで残しているだけに、自分で納得するまでは帰ってきてはくれないんだろう。
となれば雪さんの事、一体どれほどの耳掻きのテクを身につけて帰ってくるのだろうか。
それを思うと、自然と頬が緩んでしまうダメな自分がいた。
照りつける日差しが、山育ちの自分には本当に辛いです。
しかも、見渡す限り周りは海だらけ。どうしても海は好きになれません。できることなら、今直ぐにでも逃げ出したいのですけど。
でも、この旅は自分で決めたことですから。
目的を成し遂げます。
いつものノースリーブのスーツは、肌の露出が多くてちょっとまずかったかもしれません。
あまり肌を焦がしたくはないので、葦を編み上げた麦藁帽のようなツバの広い帽子をかぶって、強い日差しを凌いではいますが。
ま、これでも気休め程度にはなるでしょう。
見知らぬ地。
花梨さんに引導を渡されたあの夜、必死で調べ辿り着いた先がここ。
耳かきの達人がいるという、この地．．．
「お姉さん、耳そうじ？」
通りすがりのおじさんに片言の日本語で突然尋ねられましたが、彼が噂の耳かき屋さんでしょうか。この土地の耳かきレベルを知るには手頃であるし、試しに頼んでみるのも悪くないんでしょうけど、今は時間を無駄にしたくはありません。
雪は、やんわりと申し出を断り、先を急ぐことにしました。
背後で、彼はなにやら悪態をついているようですね。
人としての器量の程度が知れるというもの。頼まなかったのは正解でした。
大通りから外れた裏路地、薄汚れた雑居ビルの一室。
ノブに手をかけ古ぼけた木製のドアを開くと、室内から流れ出た涼しげな空気が、むっとした大気を押しのけて雪を包み込む。
部屋は待合室のようです。壁沿いに置かれた長椅子が２脚と、透き間を埋めるように無造作に置かれた観葉植物の鉢が並んでいます。
小さな窓から差し込む明かりだけが部屋を照らしていて薄暗いのですが、他にお客さんの姿はないようですね。
ごめんください．．．いえ、ここでの挨拶は．．．
日本を発つ前に暗記してきた記憶をさぐり、現地語の挨拶を声に出そうとしたとき、突然背後から話しかけられました。
「お客かね」
周囲に視線を巡らせ声の主を探すと、向かいの壁に設けられた小窓から、眠そうな顔を覗かせている老人の姿を見つけました。黒く日に焼けた老人の顔は薄暗い部屋の影に溶け込んでしまっていて、入ってきた時には気が付かなかったようです。
えーと、とりあえずお客です。
ゆっくりと現地語で答えて、反応を見ます。
"とりあえず"というわたしの言葉に、老人は訝しげな視線を投げかけたものの、すぐに元の眠そうな表情に戻ると、ではこちらへと奥の部屋に案内されました。
案内された部屋は６畳程でしょうか。
真ん中には、白いシーツが掛けられただけの質素で細みな木製のベッドがあって、その横に置かれた台の上には無数の小さな金属の棒．．．そう、耳かきが並べられています。
中には、孫の手を小さくしたような、日本でよく見かけるタイプのものもありますけど、その大半を占めているのは複雑な形状をした見慣れないものです。
「横になって」
もう少し用具を観察していたかったのですが、今は施行してもらうのが先でしょう。靴を脱ぎ、素直にベッドの上で横になります。そこでいつもの耳かきの態勢、耳が上を向くよう身体を横に向けようとすると、そのままでいいと止められました。
仰向けのままで行うということでしょうか。
壁際の棚へと歩いていった老人は、耳の穴を照らすためであろうライトを頭に付け戻ると、そのままベットの横で無造作にあぐらをかいて床に座り込みました。
彼の目が丁度わたしの耳の位置にきています。
なるほど、これなら仰向けになったままでも問題ないわけですね。
耳を照らすライトの熱をほんのりと感じていると、老人はぐっと顔を近づけ、覗き込むようにわたしの耳を観察している様子。
頭のライトは、じりじりとその熱さを増していきます。
暫しの観察を終えると、かちゃかちゃと音を立てながら台の上の耳かきを一本、手に取りました。すっと細まる目元。
いよいよ始まるようですね。
空いている方の左手で耳たぶを押さえ、右手に持った耳かきが耳の穴に入ってきました。
一体どのような掻き方をしてくるのか、耳の感覚を研ぎ澄ませて相手の出方を待っていると、チリッ、チリチリッ、と伝わる感触。
それは耳かきではなく、最初は剃刀を使った産毛剃りでした。
ちょっと拍子抜け、でも削ぎ落とされる産毛の一本一本から伝わってくる、さざ波のような刺激はとても気持ちが良いです。
肌に触れるか触れないかというギリギリのところで、クルクルと刃先を回転させています。
スッスッ．．．スッスッ．．．
鮮やかな手際であっという間に産毛を剃り終えてしまうと、またカチャカチャと台の上の道具を鳴らしながら、違う一本に持ち替えました。
産毛剃りですっかりリラックスしてしまった身を引き締め、また耳へと意識を集中。
ひんやりとした金属の感触が、耳の内壁に広がりました。いよいよです。
と、その冷たい感触はススーッと耳の奥へと移動し、かつて体験したことのないような奥底で蠢く感触が。
えっ、こんな奥まで．．．
普通なら、ここまで耳かきを入れられたら痛くてかなわない筈。もちろん、自分でもこんなに深くまで入れたことはありません。
なのにこの、身悶えるような心地良さは一体なんなのでしょうか。
スッ．．．スーッ．．．
動きはあくまでも繊細。集中してしないと、耳かきの存在すら忘れてしまいそう。
なのに、ひたすら伝わってくる快感の波。
全身の緊張が緩み、力が入らないまま、ねっとりとした液体に浮かんでいるような浮遊感だけを感じて、意識が遠のいていきます...
不意に肩をたたかれ、目覚めました。
いつの間にか、眠りに落ちてしまったようです。少しでも相手の技を盗もうと思っていたのに、不覚でした。
と、ふと股間に伝わる冷たい感触。
こ、これはまさか．．．濡れているのでは！？
耳かきをされていただけなのに、その．．．イっていたなんて．．．
間違いない、この人です。探していたのは。
次は左耳を、とゼスチャーで伝える相手を遮り、雪は言いました。
「弟子にしてください！」
「もう、雪のことは忘れた方がいいんじゃないかなぁ」
相変わらず、花梨は失礼な事を言う。雪さんが居なくなってから一月が経ち、このまま帰って来ないんじゃないか、と思うこともある。
けど、置き書きには確かにこうあった、「腕を、磨いてきます」と。
だったら、戻ってきてくれると考えるのが自然ではなかろうか。
「でもさぁ、耳かきの腕を磨くって言ったってね。どこで何をするっていうのよ」
そういう花梨は、庄一を実験台にして日々練習に励んでいたのを忘れているのだろうか。ふと、修行と称して雪さんがどこの誰とも知らない男の耳かきをしている光景が浮かんだ。
何とも言えぬ、嫌な気分がした。
「それに、さ。もう我慢の限界なんじゃない？」
くるくると耳かきを指先でもてあそび、悪戯っぽい視線を向けてくる花梨。そ、そんなことはないよ．．．
と、口で言ってみたところで、嘘臭いだろう。
実際問題、もう限界と言っていい。
雪さんがいなくなったあの日から、一切の耳かきを拒絶しているんだから。
僕の耳の穴には、相当な耳あかが溜まっている筈だ。心なしか、最近耳の聞こえも悪くなったような。
「我慢するのやめて、楽になっちゃいなよ。気持ちいいよ？」
思わず涎が垂れそうなほど、魅力的に感じる花梨の台詞。お陰で、ここ数日慢性的に感じていた耳の穴の痒みがピークに達し、我慢しているだけで涙で目が霞む。
も、もうだめ．．．
ふらふらと、ふくよかな花梨の膝の上目指して倒れ込みそうになったその時。
「待ってください！」
その声は．．．雪さん！振り返り、久しぶりに見る雪さんの姿を確認する。背にした夕焼けが赤く照らす、薄汚れたボロボロのメイド服が壮絶な修行の跡を感じさせた。
って、一体何の修行に行ってきたの．．．
「あ、これは壮絶な修行をビジュアル的にイメージできるようにと、家で用意してきた服です」
手が混んでるね．．．「雪．．．あんた生きてたんだ」
あまりの雪さんの姿に毒気を抜かれたか、呆然としていた花梨が発した台詞は、失礼を通り越して暴言の域に達している。そんな花梨を燐とした瞳で見つめかえし、一歩も引かない雪さん。
「勝負です、花梨さん」
「．．．いいじゃない、受けて立つわよ」
「で、勝負のやり方は？」
「それなのですが、お互いの耳を掻きあうというのではどうですか」
「いいけど、勝敗はどうやって付けるのよ」
「先に．．．イッた方が負けです」
「え！？な、何言ってるのあんた！」
「言葉どうりの意味です」
「嫌なら不戦勝で雪の勝ちです」
「い、嫌だなんて言ってないでしょ！いいわ、分かったわ」
そして、先攻を決めるジャンケンには、雪さんが勝った。
「わたしが先ですね」
言われるがままに横になり、雪さんにひざ枕された花梨は実に緊張した面持ちだ。それは、イかされてしまうかもしれないという恐怖心によるものなのか、それとも。「では．．．」
さわっ、と雪さんはその細く白い指で花梨の耳元の髪をかき分けると、露になった耳たぶを摘まんで軽く引っ張っぱり、穴の中を覗きこむ。「さすがに、手入れは行き届いているようですね」
当然でしょと花梨。と、そんな様子をじっと見つめていた僕の視線に気付いたのか、照れ交じりに毒づく台詞。「な、なに見てるのよ、トウヤ！」
いや、雪さんのテクがどんなものなのかなと思って。「そんなの見てなくていいから、って、えっ、や、やだ．．．いきなりそんな奥．．．んんっ！」
前触れもなく、おもむろに耳かきを花梨の耳へと進める雪さん。 「ふふ、ここなんて良いのでは？」
「べ、別に．．．」
「そうですか？ここらへんの刺激は好きそうだと思ったのですが」
「くっ．．．そこは．．あぁ．．．」
「どうですか？そろそろ良くなってきたんじゃないですか？」
「．．．別にって．．．言ってるでしょ．．．」
「ふふ、その割に身体の方は随分と反応してきているようですけど」
「そ、そんなこと．．．」
そして、もじもじと股間を擦り寄せるよう、両足を忙しなく動かし始めた。
耳からの快感が、下半身へも刺激を与えているのだろうか。
そんな花梨の様子を知ってか、対する雪さんは表情に悪戯っぽい笑みを浮かべている。小刻な指先の動きは容赦ない。
出し入れという直線的なストロークに、時折くるくると耳かきを回転させる変化を加え、花梨の耳を攻め続ける。
「あはぁ．．．そこいぃ、いぃよぅ．．．」
「ふふっ、ここがいいんですね。じゃ、もっと掻いてあげます」
「あ、ダメ！そんなにしちゃ．．．ああっ！」
「ここは弱いみたいですね・・・では、これで最後にしましょう」
「．．っ！！イク．．．イッちゃうーっ！」
「．．．雪の勝ち、です」
にっこりとほほ笑みを返す雪さん。見ているだけでも凄い勝負だった．．．というか花梨は大丈夫なんだろうか。
なんというか、放心状態だけど。
「別にトウヤさんが心配するようなことはありません。後始末は雪がしておきますから、トウヤさんは先にお帰りください」
まぁ、雪さんがそう言うなら。後始末という言葉から否応無しに沸き起こってくる妄想を振り払い、それはそういうものなのだろう自分を納得させる。
でもなぁ．．．花梨、白目むいてよだれまで垂らしてるし。
「トウヤさん！」
あ、はい、先に帰ります。どうにも気になる花梨から何とか目をそらすと、雪さんに軽く挨拶をして一人帰路についた。
ゆ、雪さん、今日はそれくらいでいいから．．．
「遠慮しなくてもいいですよ？」
いや、遠慮とかじゃなくて、ほんとあの．．．もう耐えられそうにないんで。このままだと、またパンツ汚しちゃうし。
「それなら、雪がいくらでも洗ってさしあげますから」
いや、あのね、そういうことじゃなくて、って！あぁ．．．あの日以来、雪さんに耳かきをされる度にイかされる日々。
いやほんと、雪さん自身もこのシチュエーションを楽しんでいるんじゃないかという気がするんだけど。
「ふふ、スッキリしましたか？」
そりゃもう、すっきりはしました。しかしほんと、雪さんてどこでどんな耳かきの修行をしてきたんだろ．．．
fin.